ワウの町と人
ここでワウの町の様子を紹介しよう。中心部にはマーケット、キリスト教会、学校、病院(ヘルスセンター)、銀行、郵便局、スーパーなどがあり、予想以上に生活しやすい。マーケットにはタロイモやサツマイモなどのいも類、キュウリ、トマト、キャベツなどの高原野菜が豊富に揃い、スーパーにはオーストラリア産の米や冷凍の肉、日本産の醤油や缶詰、日用品などが売られている。
さらに、外国人と一部の金持ちの現地人しか利用していないが、ゴルフクラブもある。外国人は金採掘企業に働くオーストラリア人や、教会に勤めるアメリカ人、スーパーを経営する中国人で、日本人は私と河川や土壌分析専門の青年海外協力隊の同僚だけであった。
電気は敷設されているが、電気代が払えずに夜はランプで過ごしている家が多い。電話は一般の家庭にはほとんど普及していない。おしゃべり好きなこの国の人々にとって電話は憧れの文明機器で、郵便局にある町唯一の公衆電話にはつねに列ができていた。
郵便は配達してくれないので、郵便局まで行って、鍵で私書箱を開け郵便物をチェックする。私書箱の利用は有料なので、すべての人が郵便を受け取れるわけではない。水道は町の中心地の一部には敷かれているが、ほとんどの家が雨水をタンクに溜めて利用している。標高があるので涼しく、マラリアを媒介するハマダラカは少ない。
金鉱で栄えた町
ワウは、1922年にこの地域で金鉱が発見されてから開発が始まった。その後いくつかの優良な金鉱が発見され、いわゆるゴールドラッシュが起こった。しかし、当時ワウは陸の孤島であったため、世界にいち早く航空機による輸送を開始した。1927年にはワウ飛行場が造られ、1937~1938年には、世界で最も多い離発着数を記録しており、当時の盛況ぶりがうかがえる。いまでもワウ飛行場は当時のまま利用されている。
金鉱の操業は現在も続いているが、町の様子からすると当時のような活気はないように思う。オーストラリアの大手金採掘企業やマレーシアとパプアニューギニアの合弁企業など外国資本の採掘企業からローカルの人々による小規模なものまで、ワウの町の多くの人がいまでも金掘りに携わっている。
ワウの男たちは、概して働いているような働いていないような、そんな人が多いように思える。ほとんどがにわか金鉱夫で、だれかが大きな金塊を当てたとか、金の取引価格が上がったなどの情報が入ると掘り、しばらく掘るとまた休んでしまう。反面、女性は働き者である。畑仕事、家事、炊事、子育てとそのほとんどを請け負っている。
家族が出かける時は、男がブッシュ・ナイフ(山刀)を一本持って先頭を歩き、その後ろを女は額からビルムと呼ぶひもで編んだ大きな袋を背負い、いもなど食料を入れて持ち、子供たちを連れ歩く。男は外敵から家族を守るといった伝統的な家族習慣をまだ見ることができる。
日本軍が狙った町
ワウは第二次世界大戦中、日本軍の奇襲攻撃を受けた土地でもある。
ワウの南のはずれにカイセニックという小さな村がある。小高い山に囲まれた静かな村で、谷間を浅瀬の川が流れ、子供たちが水遊びをしていた。ワウの他の川と同様に水は土砂で茶色に濁っているが、村人の話では魚がいるという。ココヤシの木が生え、カンナやランタナなどの花と庭木できれいに整備されていて、住み心地のよさそうな村であった。
その村を訪れたとき、三十歳ぐらいの一人の村人が、よいものがあるから見せてあげるといって、私を納屋のような小屋に入れてくれた。部屋の中央に木箱が置いてあり、村人はふたを開けると、銃の部品、銃弾、飯ごうを一つずつ取り出した。よく見ると、飯ごうには沼田隊高橋と書かれていた。日本兵の遺品だったのである。その村人は山の向こうにまだたくさん銃弾など遺品があるといった。
この村の上の丘陵線が、日本軍と連合軍の激戦場所だったのである。村の年寄りは、その当時の様子を語ってくれた。
「川の向こうの山から日本兵たちがやって来た。それで、オーストラリア軍は、後ろの山から攻撃した。あの辺の丘ではたくさんの日本兵がやられたよ」
と村を囲む山々を指差しながらいった。この静かな村で、五十年前銃声が鳴り響き、銃弾が飛び交ったことを知ったのは、緑の草の上で村の子供たちとバレーボールをして遊んだ後のことだった。このカイセニック村を離れるとき、古びた教会の庭に鐘が吊ってあり、その周りを囲むようにオレンジ色のコスモスのような美しい花が植えられているのを見た。それは、今日の平和を象徴しているようだった。
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