「聖書の植物」名称翻訳考

著者:編集者・翻訳家 藤本 時男

著作権について

1.コエンドロ(コリアンダー)─前編─

コエンドロ(コリアンダー)

コエンドロ(コリアンダー)

地中海沿岸原産のセリ科1年草または2年草。
独特の臭気をもつ葉は中華料理、タイ料理、
インド料理などに香草として多用される。
果実は芳香をもち、カレーをはじめとする
エスニックな料理に好んで用いられる。

はじめに

聖書のヘブライ語の植物名はどのように訳されているのか、同系のアラビア語や、ヨーロッパ諸言語とどのように関わるのか、そして、学名にどのように反映されているのかを紹介する。予定のテーマは、コエンドロ、シロレダマ、ヒマ、レバノンスギ。

旧約聖書(前三世紀)では、出エジプト記と民数記の《ガドゥ》というヘブライ語がコエンドロを表わしている。旧約聖書のギリシア語翻訳である七十人訳(前二‐前一世紀)は、このヘブライ語を《コリオン》というギリシア語に訳している。そして、旧約聖書と深く関わるユダヤ教聖典のタルムード(四世紀)は、《クースバル/カースバル》という語でコエンドロを表わしている。このように、コエンドロを表わす3系統の語が登場する。

第一の語《ガドゥ》は、「切れ込む」を意味する動詞《ガーダドゥ》から派生したと推測されている。つまり、コエンドロの種子には二分する細い筋があり、この特徴を捉えてそのヘブライ語名が生まれたという。第二の、七十人訳のギリシア語《コリオン》は、コエンドロの強い匂いを連想させる昆虫の《カメムシ》つまりコリスに由来した語で、本来の語形はコリアンドゥロンである。この語を借用・音写したラテン語の《コリアンドゥルム》は、ヨーロッパ諸言語のコエンドロを指す語を派生させ、やがてリンネによってコエンドロ属の学名Coriandrumとして採用されたのである。

[この項つづく]

2.コエンドロ(コリアンダー)─後編─

カメムシ(ナナホシキンカメムシ)
カメムシ(ナナホシキンカメムシ)
カメムシの多くは胸部に臭腺があり、触ると悪臭を放つので「ヘクサムシ」とか「ヘッピリムシ」などと呼ばれる。コリアンダーの葉をもむと独特の匂いがあり、これを悪臭と感じるか、食欲をそそる匂いと感じるかは、人にもより、文化の違いにもよる(コリアンダーの葉とカメムシのにおいをチャンスがあればかぎ比べてみてください。できれば南京虫のにおいも確認したほうがよいけれど、かつてはともかく今の日本で南京虫と出会うチャンスはあまりないでしょう)。[写真:西原彩子]
コリアンダー(乾燥果と葉)
コリアンダー(乾燥果と葉)
コリアンダーの完熟した果実には「芳香」があり、カレー料理のスパイスとして多用される。葉は「パクチー」、「香菜(コウサイ、シャンツァイ)」などの名称で売られる。インド料理、タイ料理、中国料理などにかかせないハーブである。[写真:編集部撮影]

和名の《コエンドロ》は、ラテン語から派生したポルトガル語《コエンドル》の借用語であるという(十七世紀)。また、現在、広く使われているコリアンダーという名称は、英語をカタカナ表記した呼称である。ところで、タルムードには、旧約聖書と違ってコエンドロがしばしば登場するが、その《クースバル/カースバル》という第三の語は、どのような語源なのだろうか。コエンドロの伝播ルートを示すかのように、この語はアラビア語のクズバラー、ペルシア語のクズブラーに由来し、アラム語のクースバレターから、さらにアッカド語のクズブラーへ、そしてサンスクリット語の《クストゥンバリー》にまでさかのぼるという(二世紀以後)。語の要素は、刺激のある風味を表わすとされる。これらの語と間接に関わるのが、中国語名の《胡作字フスゥイ》(十一世紀、植物の伝来は三世紀か)である。この名称は古イラン語を音写したと推定されている。胡の一字が外国産を表わし、コエンドロの伝来を教えている。朝鮮語では、胡作字を音写したホユという語がある(十八世紀か)が、語源不詳の《コス/コス・プル(=草)》が広く使われている。

終わりに一言。コエンドロの独特な匂いを《南京虫のような as a bug》と表現されているのを、しばしば見ることがあるが、南京虫(トコジラミ)とするのは不適切である。前編で記したように、ギリシア語の《コリス》に由来する由緒正しき名称は、名実ともに総称の《カメムシ bug》であり、その匂いを伝えているのである。