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植物の名前を考える
1.なんで『名前』が必要?

なんで「名前」をつけるのだろう? 名前なんか無くても用は足りる。一人で山を歩くとき「これはヤマツツジ、あれはタチツボスミレ」などと言わない。せいぜい考えることは「これがあったあれも咲いている」だろう。家庭の会話でも「オイあれ取って」で済んでしまう。
ところで「これ」や「あれ」も名前である。代名詞というやつだ。頭の中に「これ」とか「あれ」とかに対応する箱があって、その中には「ヤマツツジ」だの「タチツボスミレ」だのという封筒が入っている。時と場合によって「これ」や「あれ」の箱の中身を入れ換えながら、臨機応変に使い分けてゆく。一人の頭の中なら、これで差しつかえない。
ところが二人となると、「あれ」という箱の中に同じ封筒が入っているとは限らない。家庭の中なら長年のやりとりで十分に調整が出来ているから、「あれ取って」で通じる。しかし他人同士となると、「あれ」の箱の中身が同じことはまずない。だから「ヤマツツジ」とか「タチツボスミレ」とかいう「固有名詞」(ではないのかな?)を張りつけた箱が、頭のなかに必要になる。
つまり名前というものは、他人同士の情報交換のためにあることになる。同一人でも時刻が異なれば「他人」だから、記録のための「名前」が必要になる。
[つづく]
2.『名前を知る』とは

サザンカとアリ
名札をつけた箱の中身を豊かにする情報。
豊富な蜜をなめに来ているのだろうか。
授粉に関与しているのだろうか。
アリの種名も調査記録されるとよい。
(2005年10月25日朝撮影;横浜市保土ヶ谷区にて)
名前というものは、他人(時刻の異なる自分も含む)との情報交換のために必要である。そこで頭の中の箱に「ヤマツツジ」という札を貼る。この場合、名前は「箱」に張られた札に過ぎない。
観察会をやると、植物の名前を聞いただけで、暗記しただけで、その植物を知ったつもりになる人がほとんどである。自分でその植物をバラしてみたり、言われた以上の突っ込んだ観察をやろうとする人はまずいない。お合いをして名前を紹介されただけで、相手を「知った」と思うのは大間違いだということは、自他ともに苦い経験があるだろう。
名前を知ったということは、あくまでも箱に札を貼っただけに過ぎない。中身は空っぽなのである。箱の中身は、その後の自分の観察の結果をため込むことによって充実してくる。観察結果の行く先を誤らないために、箱に名札を貼るのだ。
名札のついた箱を如何にたくさん作っても、空き箱ばかり山積みしていたのでは、知識を蓄積したことにはなるまい。蓄積したつもりでも、指導者の声や本の丸写しでは、「ヤマツツジ」の知識全体を富ますことには貢献しない。自分独自の観察結果を、少しでもため込んでほしいものだ。
3.名前だけついた空き箱


ベトナム土産のラン(Cymbidium の一種?)
萼片外側の基部、花柄の基部、花序軸などに目立つ甘い蜜。
蕾のときから出ていたのだが、原産地ではどんな意味を持っているのだろう。
2006年1月3日撮影。
「名札のついた空き箱」というのを理解してもらうために、次の例をあげよう。
パソコンでS=A+Bという計算プログラムを動かすとする。この式の意味は「Aという記憶場所の中身とBという記憶場所の中身を取り出して足し合わせ、その結果をSという記憶場所を作ってそこへしまう」というものである。パソコンが「Aという記憶場所の中身」を取り出そうとしたとき、そこに何も入っていなかったら、仕事ができないでエラーストップしてしまう。だからこの式を実行する前に、たとえばA=1.5,B=3.2という作業をしておかねばならない。これをしないと空き箱と言っても、A=0ではなく、「なにが入っているかわからない」状態なのである。この作業が「箱の中身を蓄積する」、つまり自分の観察や研究で知識を積み重ねることに相当する。
実は私もプログラム言語を習うまでは、「名前=知識」という先入観に犯されていて、「名前だけついた空き箱」が存在することに気づかなかった。AやBの中身が貧弱なら、Sも当然貧弱なものになるだろう。だから立派なことを言うためには、AやBの中身を増やす仕事に精を出さねばならない。
4.同定から分類へ

上:ダイコンとその花
下:ニンジンとその花
ダイコン(アブラナ科)とニンジン(セリ科)は植物学的には異なる科に分類されるが、園芸分類では「根菜類」という分類概念のもとに一緒にくくられる。
ヤマツツジの名札のついた箱には、ヤマツツジの情報だけを入れなければならず、タチツボスミレの情報を入れてはならい。つまり自分の観察した対象が、ヤマツツジという箱に入るべきものだと判断する必要がある。これが同定である。同定と分類は混同されている。同定とは「これは何だ」と決めることである。この行為は誰が何をやるときにもせねばならない。分類というのは、同じあるいは似たもの同士をまとめ、異なるあるいは違いの大きいものを離すという行為で、分類する目的によって状況は異なる。コマツナとニンジンとダイコンとホウレンソウがあれば、台所での分類では、コマツナとホウレンソウを隣同士に並べ、ニンジンとダイコンは別にまとめるだろう。ところが図鑑では、ダイコンとコマツナが近いところに並び、ニンジンとホウレンソウは別々に離れたところに置かれる。分類の目的が違うからだ。いずれにせよ、そういう分類をやる人が、コマツナとホウレンソウをちゃんと識別する必要があるばかりか、「正しい名前」に同定せねばならない。つまり同定は、植物をやろうとやるまいと、誰でも行わねばならないということだ。他人に「これ何ですか」と尋ねて、言われた名前を信用してしまったら、買物はできないだろう。お見合いでも同じである。大抵の場合は、それで差し支えないのだけれど。