人生のネイチャーサイン

立松和平氏

イギリスでの体験である。ロンドン市内の大きな森林公園を歩いていて、 私は道に迷った。自分がどこにいるかわからないというのは、不安なものである。 前に進むしかないので先へ先へと歩いていくと、ネイチャーサインがあった。 地図が描いてあり、現在地の赤い点が置いてあった。そこにはこう書いてあった。

『You are here.』

お前はここだよという意味で、まことにわかりやすい。 そこからまた少し歩いていくと、同じ地図の中で赤い点が移動している。 つまり、私の現在位置は歩いた結果移動していたのである。 自分はいつもここにいるのだが、たえず移動していて、 そのことを示しているのがネイチャーサインなのだ。

ネイチャーサインとは人の歩くべき方向を教え導くものである。 それならば、気持ちよく導かれたい。 ネイチャーサインはそれ自体が自己主張である必要はなく、 あくまで控えめで、しかし遠慮をしていても困り、それなりに目立たなければ見落とされてしまう。 それは絶妙なポジションであって、その位置に立っている人なら 人生の名人という。

ネイチャーサインも名人でなければならない。方向などの情報をただ提供するだけでなく、その風景をどのように見るべきなのか、 どのような動植物があるのか、どんな歴史をへてきたのか、 控え目な立場でいながら、やはりきちんと自己主張をしている。 ネイチャーサインは自然について雄弁に語りながら、風景そのものであってはならない。 これは困難な立場というものであろう。 だからこそ私たちの暮らしの中で貴重なのである。

『You are here.』のネイチャーサインを見た時、 人生の上でもこんな案内板があったらいいのにと思う。よく頑張ったからお前はここまで歩いてきたよとか、教えてくれるネイチャーサインがあったらいい。