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植物文化に貢献した人々 泉 宏昌氏

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2001年3月 日本植物園協会誌 第35号

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―「植物文化に貢献した人々」③ ―

泉 宏昌 HiromaSa IZUMI1942年(昭和17年)7月7日生  出身地:東京

20世紀最後のフィールドワーカー
泉 宏昌 断章

毛藤圀彦

〔写真:ヤップ島にて(1980.06)カエサルピニアの採集品でご満悦の大兄〕


「後世に名を残した人、人に大きな力を与えた人」には、その人の人生を決定づけた輝く何かがあるものだ。ところが泉宏昌(以下、大兄と呼ぶ)の年譜にはそれらしきものは見あたらない。大兄はいわゆる学閥、派閥とは無関係で、人や物に寄り添うことや群がることを極端に拒んでいた節さえあった。しかも、人付き合いや組織立ったことは苦手だったから、栄光からも立身からも無縁な人生になってしまったのだろう。主役となることもなく、家庭さえも作らなかった大兄の年譜は、したがって行動の記録だけで埋まり、一見、実はそれがとてつもなく大きくてすごいのだ、と気が付かせないくらいに素っ気ない。

が、その反面、あれほどに多くの友を作り、友に愛された人も珍しい。植物を愛し、友を愛し、酒を愛した人生、そして、人に尽くしても尽くされることを嫌ったあの一徹さは、一体どこから生まれてきたのだろうか。

しかし、知る人ぞ知るで、大兄には植物の世界に入る前後から他界するまでのおよそ30年間、ずっと師事しつづけた富樫誠さん(以下親父さんと呼ぶ)とのご縁が極めて深かったことを見逃すわけには行かない。フィールドワークを中心とした巾の広い、植物から一度たりとも目をそらさなかった「大兄のあの植物ロマンの人生は、親父さんとの出会いから始まり、親父さんの死の予感で終わった」とは、小生の確信であるが、それを証明することから記す。

大兄は昭和17年に東京に生まれるが、3才から小 3年まで約6年間、疎開先である両親の実家新潟県柏崎市にて育つ。柏崎はほぼ親父さんの出身地でもある。これは偶然の事実だが、二人は同県同郷の絆で繋がっている。

それから大兄は、東京の大田区に移って、東京都立園芸高校に入るが、ここ都立園芸は親父さんの出身校でもある。そして二人の出会いを決定づけること(それは親父さんのご子息の勝樹さんと大兄は同窓だったこと)と重なり、大兄の多感な16-17才の歳に勝樹さんを通じて親父さんと知り合う運命の日がやってくる。

40代後半を迎えたばかりの親父さんはこのころ、体力気力共に充実している年代にあり、植物人生の絶頂期に当たる。そしてフィールドワーカーとしては「数少ない成功者」の道を歩んでいく。この頃の大兄の目には、親父さんの言動は、まばゆいばかりに映ったに違いない。

たとえば、親父さんは49才(大兄高1の16才、歳は33才ちがう)の時に第一次東京大学インド植物調査隊(シッキムヒマラヤ)に参加、続いてシンガポール、マレーシアの生薬調査、ボルネオのキナバル山の調査に入るのが51才、さらに翌52才には再び第二次東京大学インド植物調査に参画、そして富士山の眺望が日本一美しいとされる山梨県忍野村に私有の栽培地を求めて作業小屋(後に転居して、皆に「北富士ガーデン」と親しまれた)を建てたのが、その2年後の54才の時である。

「総じて小田急電鉄の頃の大兄は、傘下のキャンプ場(籠坂峠)を管理する機会に恵まれ、この地が「北富士ガーデン」に比較的近かったため、大兄の忍野村通いが頻繁になる。これを機に園芸(マミ川崎時代)や造園(向ヶ丘時代)から一転、野生植物とフィールドという親父さんと同じ道に入るようになった」とは同じ師弟の布万里子さんのその当時の記憶である。

このころを大兄の立志期とみよう。親父さんから受けた「植物ロマンと圧倒的なまでの行動力」はほぼこのころに形を成したのだろうと思う。

続いて細かい足跡を拾うと、大兄22才の時、親父さんは武田薬品を退職、その記念に、かの有名な大阪城~東京皇居間の直線最短コースを28日間で徒歩採集の旅を決行している。その5年後、今度は還暦記念を祝して南アルプス14日間の縦走を断行。この時大兄は途中、ご子息の勝樹さん、友人の立石庸一(現・琉球大教授)氏らとサポート隊に加わったと聞く。親父さん60、大兄33才のころの記録である。

およそこの10年間を大兄の成熟期への入口とみよう。その後の、迷うことない大兄の人生は、一口で言うと、フイールドにある(野の人、在野の人といいかえてもよい)。「大切なのは現場、学ぶべきは現場」という姿勢、「植物あり、友あり、酒あり」という人生もこれで決まった。その生き様は終生変わらず、それは、親父さんからの直伝でもあった。

フィールドで生きるということは、フィールドで「いつ死んでもいいように生きる」生き方でもある。

親父さんと大兄との終焉は、その約22年後の平成10年、突然にやってくる。

55才をむかえた2月23日に大兄が急逝。その日から数えて258日後の同年の11月8日に親父さん87才にて逝去。ひたすらフィールドに生きて散った二人は、20世紀最後のフィールドワーカー、あるいはプラントハンターとして、魂がようやく一つとなって地上から共に去っていく。親父さんが、「大兄の先立ちの報」に大きく反応して、激しく流涙したと、その後布万里子さんから聞いた。

次に、大兄との出会いのことを記す。

それは忘れもしない1974年(昭和49年)の正月1月2日である。

この当時のことを、かつて「木々の名前が気に掛かる」(植物案内板10年の挑戦やっと軌道に)のタイトルで『日本経済新聞の文化欄』に記したことがある。その記事が手元に残っているから、大兄が出現するくだりを抜粋する。時に小生30才(大兄は1年歳上の31才)、アボック社の創業年の出来ごとである。

「~少し植物の勉強をしたてのころ、私は強い植物への好奇心を押えることができず、塾を開くことを思いたったのである。講師は植物探検家の泉宏昌さん。彼とはついこの間、ヒマラヤの画家として高名なひげの清野恒先生宅で出会ったばかりだが、泉さんは「自分の勉強にもなる」と快諾してくれた。塾生は、当時編集の仕事をしていた私の友人たちであった。「植物音痴全員集合」のラッパに、様々な職業の人が八人ほど集まった。泉さんは毎回どこからかリュック一杯の草木をつめてきて、机狭しとそれを広げた。観るものがすべて珍しく、私たちは大騒ぎしながら木々を折ったりかじったり、美しい花も、とことんバラバラにした。冬は標本などを前にしながら話に花が咲いた。「谷のありかを知っていること、 草や樹の区別ができ名前を良く覚えていること、森を人より上手に駆け巡ること――この三つがピグミー族のステータスシンボル」。私たちは「あっ、それ は泉さんそのもの」といって笑いころげたものだった。~」

小生らはこの会を「泉塾」と名付けた。週一回の割で都合約3年つづけたから、単純計算すると100回前後開講したことになる。大兄と小生との縁はこうして始まる。だから、小生は時に「大兄の1番できの悪い弟子」と自称する時があるが、あながち論拠のないことでもない。大兄にはその後もフィールドを中心に、たくさんのことを教わるが、その交友は 約23年に及ぶ。

大兄との思い出はたくさんあるが、フィールドでいうと国内では「小笠原諸島の調査」(1975年頃から5年ほど続けた)がいちばんであろう。

小笠原諸島の調査行は、豊田武司著で小笠原唯一のフロラ『小笠原植物図譜』上梓のための現地調査と写真撮影が主目的だった。大兄には前後5回ほど来島してもらった。小生も大兄も32才~33才のころのことで、最も血気盛んな時期にあたる(大兄はこの小笠原行が機縁で、その後、南硫黄島の調査隊を編成、その主要メンバーに加わっている)。

海外の本格的なフィールドでは1980年から4~5回ほど続けた「台湾南部山岳地植物調査」がある。主宰は牧野動植物同好会幹事の川村カウさんの紹介だった、当時玉川大学の資源学教室教授の許田倉園こと許建昌先生。このプロジェクトは許先生の肝煎りで、母国である「台湾の山岳植物図譜をAbocで本格出版したい」という申し出もあって開始した。年2~3回ほどの現地探索と植物標本採集を基に作成しようということで小生と大兄とがチーフ役を買って出たが、日台共同でやろうとの話にまで発展して台湾大学の植物分類学専攻の学生とも行動を共にした。(残念ながらこれは書籍としてまとまらなかったが、採集した相当数の標本は、台湾大学と玉川大学に同セットが保管されている、と思う。)

この台湾調査では、現地に入る前に勉強会を開いたことが思い出深い。これを「許田塾」と称した。許先生から学ぶ会だから会場は日暮里の先生宅で、時間は夜の7~8時から開始したから帰りはいつも終電だった。都合7~8回位は開いて、大兄と小生はたしか皆勤であった。きわめて向学心に燃えていたころの思い出である。

次に、大兄を介して知友をいただいた幾人かのご縁にふれる。

その筆頭は「ザッカス」こと脇坂誠先生(以下脇さんと呼ぶ)であろう。1975年(昭和50年)ごろのことだ。小生はたまたまネパールヒマラヤで採集した野性ランの数株をもって大兄に保存栽培してくれる施設を相談したところ、神奈川県立フラワーセンター大船植物園にマナスル(アンナプルナやチョゴリザ)を極めた登山家兼植物学者の某大人がいるから行け、という。これが脇さんとの初めての出会いとなる。小生はその後、「東京脱出組一番」と、少々粋がって事務所を東京から大船に移すことになるのだが、脇さんがいる大船の地を選んだということは、運命としか言いようのないものであった。

脇さんはラベルの重要性を直感してくれた数少ない植物人(プランツマン) の一人で、「仕事もできるだけ手伝うからヤレ」と何かに付けて励ましてくれた。特に海外の植物文献に詳しく、普通ではなかなか教えてもらえない特殊文献を気軽に教えてくれ嬉しかった。「Hortus Third」「 Zander」「Modern Roses」「Hillier's Manual of Trees & Shrubs」「Den OudenのManual of Cultivated Conifers」、そして初期段階で「Kew Index」「International Code of Botanical Nomenclature」の重要性を教わったのも脇さんからであった。また、その後、小生が師事を申し出た坂崎信之こと「おじさん」は、そのころに脇さんから直に紹介いただいたこ縁であった。

が、脇さんは1982年、ガンで急逝する。今の私の年齢と同じ57才の短命であった(追悼集に『山・薔薇・ザッカス』1983がある)。

大兄が関与した脇さんとの思い出は二つある。その一つは大兄に共同執筆していただいた(財)サンワみどり基金発行の『樹の本』。これはシリーズ第1巻から5巻まで続いてAboc出版局のミリオンセラーになった。が、この本の詳細は記せば長くなるので やめる。もうひとつはフィールドの思い出。1980年に行った日本植物園協会主催の第11次海外植物調査隊の「ヤップ島植物調査」行である。それは脇さんの死の2年前で、脇さんが隊長、坂崎「おじさん」(脇さんと同じ京大で2級下)が副隊長、それに冨樫の親父さん、大兄等が加わった思い出深い旅であった。

小生も特別参加させてもらったが、このころが小生にとっては植物も人間関係も一番楽しかった時期に当たる。脇さんは京大人文学派出身らしく、今でもフィールドワーカーのバイブルとなっている、かの有名な大著『ポナペ島』を持ち出してきて隊員用のテキストとして薦めた。大兄や小生らは当時でも既に珍本だったこの本を古本あさりで手に入れ、熟読したものだった。

この島ではさらに、坂崎おじさんの指導で、大兄中心に、金平亮三の『南洋群島植物誌』をもう一つのテキストに使い、ヤップの固有種9種の自生再確認とマングローブの全7種の採集とを、寝食を忘れるほど熱心に行った。

ところで、大兄はどんなきっかけがあって東薬に入ったのだろうか。このきっかけには、後に大兄と先輩後輩の間柄となる同じ東薬出身の佐竹元吉先(現国立医薬品食品衛生研究所生薬部長、以下佐竹さんと呼ぶ)が関与なさっていたように小生は思っていたが、実は、冨樫夫人が直接には関与されたのよ、と布万里子さんに教えられた。それによると、冨樫夫人は東薬出身で、その2級下の下村裕子先生(元東薬教授)に八王子校舎移転後の薬草園作りにと大兄を推薦され、(この間にも朝比奈泰彦先生の三男・菊雄氏・東薬教授も加わり)大兄の東薬行きが決まった、というのが実話らしい。いずれにしても、佐竹さんは度量の広い方で、小生は二番目の娘、満里子君(現 Aboc社長室)を私設秘書として3年にわたって訓練していただくなど、何かに付け交流させていただくが、大兄の実力を高く評価しつづけ、最後まで公私にわたって励ましつづけられていたことには間違いはない。大兄とは東薬に入ってから「植物研究会」の大先輩として行動することが多かった、ということが事実であるようだが、大兄が終生、最も敬意を払っていたお一人だった。

もう一人、大兄との交友がきっかけで、小生がその後に深いご縁をいただいた金井弘夫(元国立科学博物館植物部長)先生がいる。冨樫の親父さんと金井先生とは、前記した第一回東京大学インド植物調査隊(その当時、金井先生は東大の院生であったという)ですでに知友の仲である。こうした信頼関係から、在野に下った「北富士ガーデン」の親父さんに、海外との交換用のセット標本を依頼されたのは、他ならぬ金井先生であったことは周知の事実だが、その採集の手伝いと金井先生への運び役を買って出たのが大兄であった。

小生はと言えば、先生から教わった重大なことの一つに植物や地名のデータベースづくりと、その独特な作成法がある。その後のご縁をいただいて、先生の最も重要な研究テーマの成果『日本植物分類学文献目録・索引』と『日本地名索引』などを世に広く出すお手伝いをすることになる。それは今でも続 いているのだが、元はといえば大兄が糸口を作ってくれたおかげだ。

金井先生の『日本地名索引』は、一植物分類学者が私費を費やして作った「日本文化の集積」として植物を超えた幅広い分野からも認められる。そしてご存知の通り、1997年の吉川英治文化賞を受賞する。小生も出版社として大きな評価を受けるのだが、その2年後の一昨年、今度はブラジルの橋本梧郎先生の『ブラジル産薬用植物事典』も同賞を受賞する。小生は期せずして吉川英治文化賞のダブル受賞作品を出版した「幸運なエディター」として少し世に知られることになる。

橋本梧郎先生といえば、在ブラジル60年を超える日本人フィールドボタニストとしての活躍に少しふれ、大兄ともどもの関わりを記しておかなければならない。

このこ縁は1987年のこと、坂崎のおじさんから、ご子息潮君のサントリーブラジル在勤の任期が切れるから一度来い、との連絡が入り、「ブラジルの植物調査隊を組みたいから毛藤、おまえがヤレ」との指令がきたことから始まる。小生が日本側でのコーディネート役である。

メンバーは坂崎おじさんを旗振り役に、広瀬憲二さん(広瀬農園園主)を隊長、副長に大兄を配し、脇を香月茂樹君(現・国立医薬品食品衛生研究所種子島葉用植物栽培試驗場長)や喜多川元司君(現・苑友造園)が固め、サントリー側から微生物の研究員二人が加わるなどフィールドワーカー中心に8人。急きょの編成でもなかなかの顔ぶれが揃った。この時、現地で潮君の相談相手だった方が橋本梧郎先生だった。絵に描いたような温厚篤実な人柄で、在ブラジルの間、参加者全員で「梧郎ちやんから学ぶ会」と称し、未知の国南米のあらゆる情報を寸暇を惜しんで拝聴したものだった。橋本先生にまつわる課題は尽きないから、大兄との関係のみに絞り込むが、橋本先生の口から「泉君のような人をブラジルに欲しい」という言葉を小生は何度も聞いた。 ところで、橋本先生のコース・アドバイスが幸運を呼んで、私たちはサンタ・カタリーナ州の辺境の地の岩場で、とんでもない3つの植物に出会うことになる。一つは世にも珍奇な大型草本グンネラ・マニカータ、もう一つは今なら誰でもが知っているサントリー花事業部の名を決定づけたウィーピング・タイプの2種、サフィニア(Petunia)の親と、タピアン(Verbena)の親である。

グンネラは、その3年後に開かれた大阪花の万博サントリー館で人気の的になり、サフィニアのその後は、植物人なら誰でも知っての通り、前世紀末の最大ともいえる世界園芸界を揺るがすような大ヒットとなる。が、その詳述はここでは割愛する。ただし、サフィニアとタピアンは現地で変異種を求めるため、その後、サントリー単独のブラジル探索隊が幾回も編成されるが、始めはほとんど素人集団に近かった同社花事業部の潮君や村上君を中心とした幾人かを、短期間に専門集団にしたのは大兄だったことを特筆しておきたい。

大兄のフィールドワークは年譜に記した通り毎年のように続く。

小生とは他に、「ブータン植物調査」が思い出深い。また、これには小生は参画しなかったが、数次にわたって行われたポナペ島での活躍は一冊の本にまとまったくらいだから、特記に値しよう。また、国内では、親父さん唯一の著ともいえる大形出版『日本産ツツジ・シャクナゲ』のため、原画を担当した大田洋愛画伯の元に日本中の辺境の地から、生標本を送り続けたことなど、大兄の影のフィールドワークがなければ成し得なかったと記憶する。が、そこも詳述できないことを許されたい。

以上、小生のかかわったことを中心に、確認できる範囲を駆け足で記した。「植物文化に貢献した人」という今回いただいたテーマに応えられる「泉宏昌の全貌」にはほど遠いと思う。小生の知らないことや書けなかったこと、抜けたこともたくさんある。が誌面は尽きた。初期のころの大兄については親父さんのご子息の冨樫勝樹さん、高橋勉(元武田)さんら、絶頂期のころやフィールドワークに関しては 内藤俊彦(東北大)さん、神田博史(広島大)さん、 高野昭人(昭和藥科大)さん、香月茂樹(元北里大)さん、後藤勝実(京都薬科大)さん、桝田信弥(東京農大)さん、立石庸一(琉球大)さん、吉田尚利(北大)さん、森和男(ナチュラリスト)さん、渡辺高志(北里大)さんら、そして東薬時代は恩師の指田豊先生、佐竹元吉先生らが詳しい。その全体が合わさって「泉宏昌論」が完成するはずである。

最後になったが、小生の親友でもある布万里子さんがおられる。布さんは、大兄が植物の師として尊敬していたが、フィールドの同僚としても、広く行動を共にした仲間であった。そして今でも、定期的に町田(実家で気丈なお母さんがご健在)詣を欠かさず、お母様をお慰めになっておられる唯一の方である。若死にした大兄は、大の親不孝者であるが、多分、布さんには格別に託びを入れているに違いない。

《追記》

人が後世に残すことで一番大切なのは、樹を植えることであろう。大兄はこの点でも前世紀最後の植物人として大きなことをしたと思う。一昨年6月頃たまたま北大を訪れた折、薬草園の吉田尚利さんが 「あの園の奥で大きくなっている木、判りますか」という。大兄が持ち込んだ薬木メグスリノキ(カエデ科)で北海道には自生はない。10m近くの大木に育って、大きな大きなプロペラ(翼果)をたくさん実 らせていて婿しかった。 大兄が持ち込んだ植物は、各地の植物園あるいは個人庭にたくさん残っているはずである。「危険分散」が大兄の口ぐせであったからだ。今ならその記録は集められるかもしれない。それを母樹として二世、三世が生まれ、もっと広がってもいるだろう。

人が後世に残すもうひとつの大切なことに、記録をしっかりしておくことがある。大兄が各地に分散した種や生植物の行方を誰かが呼びかけ、データ化しておくことは後世にとってきわめて貴重な作業となろう。

フキタンポポなど、小生も大兄からたくさんの植物をいただいたが、そのほとんどを枯らしてしまった。でも、シロバナミツバアケビ、トキワナルコユリ、シマムロなどが今でも元気に生きている。


泉 宏昌 年譜

  1942年 (昭和17年) 07月07日 東京市神田区鍛治町にて父吉泰、母ハナの第二子の長男として生まれる。
1歳 1944年 (昭和19年) 04月 新潟県柏崎市へ一家で疎開 (両親の田舎)。
6歳 1949年 (昭和24年) 04月 柏崎市立大州小学校入学。東京都大田区久ケ原町へ転居。
新潟県柏崎市から帰京する。
8歳 1951年 (昭和26年) 04月 大田区久ヶ原小学校3年生に転入。
11歳 1953年 (昭和28年) 09月 大田区立松仙小学校5年生に転入 (新設校ができ、学区割りが変わったため)。
12歳 1955年 (昭和30年) 03月 大田区立松仙小学校卒美(第1期生)。
12歳 1955年 (昭和30年) 04月 大田区立大森第十中学校入学。
15歳 1958年 (昭和33年) 03月 大田区立大森第十中字校卒業。
15歳 1958年 (昭和33年) 04月 東京都立園芸高等学校入学 (山岳部に所属)。
18歳 1961年 (昭和36年) 03月 東京都立園芸高等学校卒業(卒論「標高差による気孔数の変化」)。
18歳 1961年 (昭和36年)   (株)後藤花店入社。
19歳 1961年 (昭和36年) 10月 (株)金花園入社。
20歳 1962年 (昭和37年)   (株)小田急電鉄向ヶ丘遊園造園部入社(この間、マミ川崎フラワー部講師)。
31歳 1973年 (昭和48年)   香港、台湾、オーストラリア東部、タスマニアを植物採集。
32歳 1974年 (昭和49年)   香港、セイシェル諸島、南アフリカ、ナミビア、ケニヤ、オーストラリアを植物採集。
33歳 1975年 (昭和50年)   香港、シンガポール、マレーシア、南アフリカ、カナダを植物採集。
34歳 1976年 (昭和51年)   中国、台湾、タイ、シンガポール、ボルネオを植物採集。
35歳 1977年 (昭和52年)   東京薬科大学薬用植物園に勤務。(広大な山野を拓いた薬草園づくりに熱中。個人で収集保存した種数は日本随一と称される。)
35歳 1977年 (昭和52年)   グアム、タイ、ネパール、ボルネオを植物採集。
36歳 1978年 (昭和53年)   タイ、ビルマ、ネパールを植物採集。
37歳 1979年 (昭和54年)   タイ、ネパール、アメリカ合衆国、メキシコを植物採集。
38歳 1980年 (昭和55年)   香港、タイ、ネパール、ミクロネシア (ヤップ島)、アメリカ合衆国を植物採集。
39歳 1981年 (昭和56年)   中国 (雲南)、香港、タイ、ネパールを植物採集。
40歳 1982年 (昭和57年)   中国 (雲南)、香港、タイ、シンガポール、ポナペ島、ネパールを植物採集。
41歳 1983年 (昭和58年)   ポナペ島を植物採集。
42歳 1984年 (昭和59年)   台湾、シッキム、ブータン、ネパールを植物採集。
45歳 1987年 (昭和62年)   タイ、ブラジル、パラグアイ、ペルーを植物採集。
46歳 1988年 (昭和63年)   タイ、ブラジルを植物採集。
47歳 1989年 (平成元年)   中国、タイ、ネパール、ブラジルを植物採集。
48歳 1990年 (平成02年)   広島県佐伯郡吉和村「魅惑の里」植物管理事務局に「村おこしプロジェクト推進指導員」として勤務。
48歳 1990年 (平成02年)   韓国、香港、シンガポール、ブータンを植物採集。
49歳 1991年 (平成03年)   ブラジルを植物採集。
50歳 1993年 (平成05年)   タイ、ネパール、ブラジルを植物採集。
51歳 1994年 (平成06年)   タイ、シンガポール、マレーシア、ネパールを植物採集。
54歳 1996年 (平成08年)   ネパールを植物採集。
55歳 1998年 (平成10年) 2月23日 横浜市鶴見区森山病院にて脳梗塞を併発し永眠。(享年55才)
(菩提寺 勝願寺 新潟県柏崎市)。

[植物の採集について] 国内外で採集した生植物、標本は自己の管理下で保存する他、生植物や種子は各地の植物園や研究施設、博物館等に積極的に配布し危険分散をはかった。これまでの採集生植物 (種子を含む) は約6000点、乾燥標本(種子を含む)は約14000点と類推されている。ちなみに年譜の海外渡航の記録は6冊のパスポートから拾った。その植物採集は全て許可の元で行われたことを付記しておく。国内の採集先は全国に及ぶが、正確な記録が把握できないので削除した。


《補1. 発表論文、執筆活動など》

1975 「阿里山・ボルネオ島植物調査報告書」 (社)日本植物園協会
1976 「春の園芸店と花屋さんめぐり」 ガーデンライフ5月号 誠文堂新光社
1976 「鉢花の手入れと管理法」 ガーデンライフ12月号 誠文堂新光社
1976 -00009 「阿里山の植物」 台湾植物調査報告書 22 1N76
1977 「ウォールガーデン(壁面花壇)」 ガーデンライフ11月号 誠文堂新光社
1977 「ウォールガーデン (U字溝利用)」 ガーデンライフ12月号 誠文堂新光社
1978 -00236「小笠原母島の乳房山へ」 みねはな(25):1-2 1978
1979 「湿性植物が楽しめる ―白毛門― 笠ヶ岳から蓬峠へ」 ガーデンライフ8月号 誠文堂新光社
1979 -00296「ヤドリギ」 みねはな (26):37 1979
1979 -00297「谷川連峰―花のメインコース」 湿原植物が楽しめる花の谷川連峰展望コース ガーデンライフ 18 (8): 24-25 1979
1980 「THE HIMALAYA」 藤田弘基写真集 植物解説(冨樫誠と)、ぎょうせい
1980 「ネパールトレッキング雑記」 みねはな 27, P.102~103
1980 「樹の本」 脇坂誠分担執筆(サンワみどり基金) アボック社
1980 -00024「ナンヨウブクリョウ採集記」 <Lentinus ナンヨウブクリョウ> YAP島植物調査報告書 Report of the Botanical Examination on the YAP Island of Western Carolines, Micronesia 53 1N80
1980 -00029「ヤップ島採集植物標本目録」 Yap島植物調査報告書 Report of the Botanical Examination on the YAP Island Of Western Carolines, Micronesia 80 1N80
1980 -00214 花のキャラバン西東―「小笠原・父島」 ガーデンライフ 19(1):91 1980
1980 -00215 花のキャラバン西東―「小笠原・母島」 ガーデンライフ 19(2):62 1980
1980 -00216 花のキャラバン西東―「沖縄本島と八重山群島」 ガーデンライフ 19(4):101 1980
1980 -00217 花のキャラバン西東―「越後路の春」 ガーデンライフ 19(5):67 1980
1981 「ネパールフルチョキ(ネパール)の植物観察行」 みねはな 28, P.13~14
1981 『小笠原植物図譜』 現地取材協力 アボック社
1982 『ヒマラヤの花』 藤田弘基写真集 植物解説(冨樫誠と)、白水社
1982 「NAUBISE植物観察行」 みなはな 29, P4~5
1982 「中国の昆明、西山地区の植物」 みねはな 30, P28~30
1982 「山菜(Ⅰ)」 P.689~691 臨床栄養 60(6)
1982 「山菜(Ⅱ)」 P.801~803 臨床栄養 60(7)
1982 -00016「南洋茯苓再見記」 <ナンヨウブクリョウ> ポナペ島植物調査報告書 Report of the Botanical Expedition to Ponape Island of the Federated States of Micronesia 10 1N82
1982 -00021「ポナペ島農業試験場内の栽培植物」 ポナペ島植物調査報告書 Report of the Botanical Expedition to Ponape Island of the Federated States of Micronesia 29 1N82
1983 -00020「バニャオ島採集記」 <Terminalia, Pemphis ミズガンピ、Cordia キバナイヌチシャ、Barringtonia ゴバンノアシ、Hibiscus オオハマボウ、Callophyllum テリハボク、Hernandia ハスノハギリ、Messerschmidia モンパノキ、Scaevola クサトベラ、Tacca タシロイモ、Morinda ヤエヤマアオキ、Digenia マクリ> ポナペ島植物調査報告書 Report of the Botanical Expedition to Ponape Island of the Federated States of Micronesia 41 1N83
1983 -01285「中国の昆明、西山地区の植物」 みねはな (30):28-30, 1983
1985 「ヤムとタロの話」 ポナペ島―その自然と植物― (社)日本植物園協会
1986 『THE ALPS』 藤田弘基写真集 植物解説、ぎょうせい
1986 「台湾 渓頭山観察記」 みねはな 33, P.26
1986 「富士山麓産の直根型 Pnaxについて」 (神田博史、布万里子、香月茂樹、磯田進、後藤勝実、佐竹元吉と) 植物研究雑誌 61(8) P.248~256
1986 「国産のオケラ属 (Atractylodes DC.) 植物について」 (後藤勝実、布万里子、香月茂樹、磯田進、神田博史、佐竹元吉と) 生薬学雑誌 42(1) P.51~57
1986 -00556「台湾・渓頭山観察記」 みねはな (33):26, 1986
1987 「金峰山の植物」 東京薬科大学植物研究部、山梨県
1987 「植物採集の基本理念」 日本の植物園 (社)日本植物園協会
1988 『カシミール、ロマンティック・インディア』 藤田弘基写真集 植物解説、ぎょうせい
1988 「テンナンショウを食べる・飲む」 ガーデンライフ6月号 誠文堂新光社
1988 「Analysis of Sponins of Wild Panax ginseng」 Hiroyuki Yamaguchi, Hiromichi Matsuura, Ryoji Kasai, Osamu Tanaka, Motoyoshi Satake, Hiroshi Kohda, Hiromasa Izumi, Mariko Nuno, Shigeki Katsuki, Susumu Isoda, Junzo Shoji and Katsumi Goto Chem. Pharm. Bull. 36 (10) P.4177-4181
1988 「Chikusetsusaponin. VI. A New Saponin from the Rhizome of Panax pseudo-ginseng var. angustatus Hara | Hiroshi Kohda, Seiji Tanaka, Yasutoshi Yamaoka, Hiromasa Izumi, Mariko Nuno, Susumu Isoda, Katsumi Gotoh, Takasi Watanabe, Shigeki Katsuki and Motoyoshi Satake Chem. Pharm. Bull. 39 (6) P.1588-1590
1989 「蘭嶼植物見聞録」台湾蘭嶼植物事情調査報告書 (社)日本植物園協会
1989 -00062「ボルネオのラフレシア」(Rafflesia) 熱帯動植物友の会会報 The News of the Tropical Plants & Animals 62:5~6
1989 -00063「ベレンで見た果実」 熱帯動植物友の会会報 The News of the Tropical Plants & Animals 63:2~3
1989 -R0005「蘭嶼産維管束植物採集目2導入植物」 台湾蘭嶼植物事情調査報告書 Report of the Botanical Observation Trip to Lanyu (Botel Tobago) Formosa (Taiwan) 89:16~20
1989 -R0008「蘭嶼植物見聞録」 台湾蘭嶼植物事情調査報告書 Report of the Botanical Observation Trip to Lanyu (Botel Tobago) Formosa (Taiwan) 89:35~36
1990 『THE KALAKORUM』 藤田弘基写真集 植物解説、ぎょうせい
1990 「乗鞍高原の植物」 (指田豊と) 日本植物園協会誌24
1990 「大阪の万国博覧会に出品する巨大植物グンネラGunneraについて」 (香月茂樹、坂崎信之と) 日本植物園協会誌24
1990 -00064「ベレンの市場」薬草売りの屋台店を中心に 熱帯動植物友の会会報 The News of the Tropical Plants & Animals 64:6~7
1990 -00065「マナウス周辺の河辺で見たいくつかの植物」 熱帯動植物友の会会報 The News of the Tropical Plants & Animals 65:6~7
1991 『THE ROKKEY』 藤田弘基写真集 写真家:岩崎崇至、植物解説、ぎょうせい
1991 『Field Graphics Ⅰ 野の花 Urban』 編集協力 (内藤俊彦、枡田信弥と)、北隆館
1991 -00070「マナウス周辺の河辺で見たいくつかの植物達―1―」 熱帯動植物友の会会報 The News of the Tropical Plants & Animals 70:2~3
1992 『ヒマラヤ極地』 藤田弘基写真集 植物解説、講談社
1992 『Field Graphics Ⅱ 野の花 Rural』 編集協力 (内藤俊彦、枡田信弥と)、北隆館
1992 『Field Graphics Ⅲ 山の花 Fields』 編集協力 (内藤俊彦、枡田信弥と)、北隆館
1992 『Field Graphics Ⅳ 山の花 Mounts』 編集協力 (内藤俊彦、枡田信弥と)、北隆館
1995 「ブルーポピー」 藤田弘基写真集 編集協力 講談社
1997 「Baswellia carterii Birdw. の発芽と初期生育」 (鈴木正一、神田博史と) Natural Medicines 51 (5) P.399-40
1998 日本で育つ『熱帯花木植栽事典』 所収約10属分担執筆 アボック社

(上記は①『日本の植物園Ⅱ』日本植物園協会創立30周年記念実行委員会編 城山豊 2000と、②『日本植物分類学文献総目録』アボック社 金井弘夫編 1994、さらに『泉宏昌先生研究累積集』渡辺高志 1998による。時おり論文名の先頭に出現する数字は①の「文献コード」である。)


《補2. 海外学術調査、その他》

「ブラジルでの学術調査」科学研究費、東京薬科大学時代
「ペルーでの学術調査」科学研究費、東京薬科大学時代
「サントリー株式会社・研究所との共同研究」 Gunnera manicata 「Surfinia sirese」他

1984 「植物材料の提供および協力」 新フラワーデザイン アミフラワーデザイン P.152 堀江英子 マコー社
1990 「花と緑の研究―健康を支える薬用植物とバイオ技術」に出展協力:国際花と緑の博覧会 EXPo'90 in大阪:私立薬系大字連合、匡際園芸家協会・金賞受賞
1990 「ネパール館庭園部植物展示協力による感謝表彰状の受賞」 (ネパール王国森林省・大使館) 渡辺高 志と 国際花と緑の博覧会 EXPO'90 in 大阪:政府公式記録集(建設省、農水省)国際花と緑の博覧会運當事務局
1990 「ブータン館庭園部植物展示協力」、同上
1992~1993 「アマゾン湿潤熱帯地域における薬用植物の採集、繁殖と評価に関する研究」 ブラジル・アマゾン農業研究協力計画専門家業務報告書:国際協力事業団
1993 「ヒマラヤ地域における優良薬用資源植物の有効利用と森林環境保全の基礎研究」その1 ―東部ネパール編― (渡辺高志、高野明、神田博史、K.J. Mallaと) 協力隊OB支援プロジェクト報告書 (三菱銀行国際財団研究助成):(社)協力隊を育てる会事務局
1994 「ヒマラヤ地域におけるネパール優良薬用植物資源の有効利用と検索・保存に関する基礎研究」その
1 ―中央ネパール編― (渡辺高志、高野明人、高野明、神田博史、篠崎和美、K.J. Mallaと) APIC学術奨励研究プロジェクト中間報告書:(財)国際協力推進協会

《補3. 所属学会ならびにその他の活動》

社団法人 日本植物分類学会
社団法人 日本植物学会
植生物学会
社団法人 園芸文化協会
財団法人 日本花の会
園芸植物分類研究会
熱帯動植物友の会 (事務局:熱川バナナワニ園研究室)
熱帶乾燥地研究会
牧野植物同好会
社団法人 日本ネパール協会
ネパール教育協力会
社団法人 日本植物園協会 (沢村賞受賞)

(以上は、『泉宏昌先生研究累積集』限定本、渡辺高志1998年5月刊による)


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