奄美大島は鹿児島より南西450km、面積819km2(属島を含む)、リアス式海岸の周囲は596km、年平均気温21℃、雨量3200mm、日本では沖縄、佐渡に次いで三番目に大きな島である。琉球列島は九州の南端から台湾の東北端に至る800kmの間に百以上の島で形成され、屋久島からトカラ列島が北琉球、奄美諸島から大東諸島を含めて沖縄諸島が中琉球、宮古島から与那国島が南琉球と大きく分けられている。明治時代、渡瀬庄三郎博士は屋久島と奄美大島の間に生物地理上のライン(渡瀬ライン)を引き、このラインを境として動植物相が大きく異なるとした。地殻の変動で各々の島に取り残された奄美大島以南の動植物は独自の進化をとげ、この辺り一帯は東洋のガラパゴスといわれている。
植物では固有種14(変種5)、他の島との共通固有種17(変種8)が確認されている。琉球最大の島、沖縄島では固有種、共通固有種合わせて19種で大島には及ばない。これは面積では沖縄(1185km2)の方が、大島本島(709km2)より広いが、標高は沖縄で与那覇岳の498m、大島で湯湾岳の694mと大島の方が200m程高く、したがって垂直植物分布は、奄美が豊かで植物の種類が多いと考えられる。関ヶ原の戦い(慶長五年)が東軍の勝利に終わり、天下を我が物にした徳川家康は薩摩の島津に、慶長十四年(一六〇九年)に琉球征伐を命じた。この理由については当時琉球王朝は明国とも主従の関係を結んでおり、日本にはその関係を極力隠していたが、家康は明国が琉球王朝の後楯にあることを充分承知していたのである。しかし、明国が内乱により弱体化して到底琉球までバックアップする能力がなくなったのを見定めてからの命令であった。難くせをつけた薩摩は首里を制圧し、和平の条件として与論島から北の島々を強引に割譲させ自国領とした。このため廃藩置県後も鹿児島県となっているわけである。
砂糖地獄
慶長十五年(一六一〇年)、大和浜の直川智が中国から持ち帰った砂糖黍で、大島で初めて黒糖百斤を作るのに成功した。彼は沖縄に行く途中、嵐に遭って中国の福建省に流され、そこで製造されている精糖法を習い憶え、帰国の際にひそかに苗を持ち帰り、金久西浜原に植えたのであった。当時、多額の負債で苦しんでいた薩摩はこれに目をつけ、元禄八年(一六九五年)には黍検者を置いて生産を強制し、年貢米の代わりに砂糖を納めさせる換糖上納令を公布し、田はすべてサトウキビ畑に転作された。そのため一旦凶作になると多数の餓死者が出た。当時砂糖一斤(600g)が米三合六勺の比率であったが、天保年間になると砂糖を島民が隠し持つことは許されず、総てがお上の管理下に置かれたのであった。天保十年(一八三九年)には貨幣の通融を禁止し搾取体制を一層強化していったのである。
この頃、島での交換比率は一斤で米一合九勺であった。これを大坂に持っていくと米一升二合の値で売れ、経費を差し引いても四倍の儲けになり、天保年間の収入は二百三十五万両、これを米に換算すると百万石に相当した。徹底した島津の植民地政策は豊富な財政を生み、薩摩対英国(薩英戦争)、明治維新の大原動力になったのである。この裏で刈り株が高いといってムチで打たれたり、糖汁をなめた子供がひどい刑罰に処されたり、民は家もなく朝夕の食に悩み、磯のモズクやソテツを食すなど、いわゆる砂糖地獄があった。
一九九五年七月六日、午前十時奄美大島空港着。東京羽田から二時間十五分。昨年(一九九四年)から直行便が運行され非常に楽になった。以前は東京~鹿児島約一時間四十五分、鹿児島乗り換えでYS11のプロペラ機で約一時間、待ち時間などを入れると半日かかったものである。早く着くのも結構だが反面、噴煙の上がる桜島の義々たる姿を横に見て、海上アルプスの屋久島、点在するトカラ列島を上空から見おろす絶景を失ったのは残念である。ジェット機では高度が高すぎて(8000から10000m)、島影も地図を見るがごとくで味も塩気もない。奄美は五年ぶりで久々の訪島だが、今回は恐らく三十数回目になるかもしれない。
十六年程前、初めてこの島に来て豊かな緑、手つかずの原生林、コバルトブルーの海に魅せられ、年三回の割合で来た時期もあった。空港にはわれわれの到着を出迎えてくれる江崎氏(コーラル観葉園)と浜田氏(興島園)の姿があった。両氏はその頃からの知り合いで、島では観葉物の生産を業として大都市に出荷している。
今回は総勢二十三名の大部隊。マイクロバス二台、乗用車二台で先ず浜田さんの農園を見学。彼の本業は土建屋で、新空港や道路建設などいわゆる公共事業を手がけ、北部笠利地区では名士の一人である。彼が観葉鉢物を生産することになったきっかけは、地方選挙で自分が応援する候補者が落選した時、市や県の工事入札にも声がかからず、当選した人物の任期中の四年間は半端な仕事しか回って来ず、あるいは仕事を干されて生活や会社経営が成り立たなくなり、それをフォローするためだったという。それにしても奄美大島は、全国でも名高い選挙トバクが行なわれ、選挙期間中は大都市から暴力団も渡来するとか、候補者の異なる応援はたとえ親戚や親子でも断絶に追い込まれるという。まあ前時代的、地方選挙狂想曲といってしまえばそれまでだが、自分の生活の総てが関わってくるので、期間中には時々の闇夜の一人歩きも危険ということになるのかもしれない。
ご自宅近くの事務所で一服、今日のスケジュールを検討し、興島園の最終仕上げハウスを見る。鉢上げされたインドゴムノキ、ドラセナ・コンシンナ、ブラッサイア、ヒロバドラセナ(コルディリネ・テルミナリス)、コルディリネ・ストリクタなどが整然とハウスに管理されている。出荷場はこれらの鉢物が剪定され梱包される作業の段階にある。生産部長の高司さんは訓練校卒業者で、東京N園に長く勤務、退職後帰郷の際筆者に奄美の就職先を相談に来られ、その仕事ぶりを買われ、現在ここの部長をまかされているのである。
興島園はソテツ、オオハマボウ、ゲッキツなどの大物、つまり植物園植栽用などを含めて内地への年間出荷量はおよそ60コンテナ、尺鉢換算で約7000鉢である。その他、現地、公園樹街路樹などの生産もある。原木農場は約六町歩あり、実生苗木から製品まで一貫生産をしている。
世界の砂糖事情
笠利地区は平地が多く、耕地のほとんどでサトウキビ栽培が行なわれている。サトウキビ(Saccharum officinarum)はニューギニアが原生地といわれる。インドからインドシナ原生種(S. barberi)、中国南部から沖縄に分布するもの(S. sinense)など12種があり、イネ科の宿根性草本でススキの近緑種である。
七世紀頃にアラブ人が地中海沿岸にもたらし栽培に成功し、ヨーロッパの食生活に新たな味として加えられるようになった。十六世紀に入って新世界の植民地開発以来、次々と世界各地にサトウキビのプランテーションが作られ、十九世紀になるとキューバを中心とした西インド諸島が主産地となり、東洋ではフィリピンのネグロス島がキューバと並び世界の砂糖壺と呼ばれるようになったのである。あまり土壌を選ばず土壌塩分にも比較的強いことから年々栽培面積が増え、全世界の生産量はこの三十年間はオーバー気味で、粗糖の価格も五分の一にダウンしているのが現状である。従って国家的産業としてサトウキビ栽培に依存していた国々は経済的破綻に追い込まれている。キューバではロシアの経済援助もストップしたダブルパンチで、アメリカ合衆国への不法労働者の流出が続いている。一方、一握りの大農園主が経営しているフィリピンのネグロス島では、サトウキビを切り出す労働者に金を支払えず、多くの労働者は家族を食べさせることができないまま幼い者から毎年何千人かの餓死者が出ている。
南西諸島で作られているいわゆる国内のサトウキビ畑は通常一反歩当たり年間十五万円~十六万円の収益があり、これは実に国際価格の五倍に当たるわけで、その差額の十二万円~十三万円は国のフォロー、つまり皆さんの税金によってカサ上げしている仕組みとなっている。そう考えてみると日本人は世界で一番高い砂糖を舐めているというわけである。
笠利半島北部には数十町歩の面積の長島植物園がある。ここは観光植物園ではなく鹿児島に本社のある、熱帯亜熱帯植物の育成農園で、多肉ユーフォルビア、サボテン、アガベ、パンダヌス、ソテツ、ガジュマルなどのフィクスが栽培されている。
皆があまりにも熱心に見学をするもので、ついつい時間を忘れ、空腹に時計を見ると一時になる。昼食を予約した「バシャ山」に急ぐ。ここは太平洋に面した海岸のレストランだが、沖合いに発達した珊瑚礁と明神崎に守られ、おだやかな砂浜が広がり、所々に火成岩礁が点在する風光明媚な場所で、マリンスポーツに興じる若者の宿泊客も多い。昼食はこの地方の名物「鶏飯」。これは飯に鶏肉、玉子焼、野菜、海藻などの具を載せ、鶏ガラスープをかけて食べるブッカケご飯のことである。「バシャ山」の名は、芭蕉山が転じたものである。すなわちリュウキュウイトバショウ(Musa balbisiana)は古来より繊維を採り芭蕉布を織るのに用いられ、琉球王朝時代には薩摩、明国に貢物として納めていた歴史があり、バショウ山(バシャ山)は当時としては大層な財産であった。奄美地方では単に「バシャヤマ」というとあまりよい意味で使われる言葉ではないので間違っても若い女性に対しては禁句である。すなわちバショウヤマ(財産)を付けなければ嫁のもらい手がないことから「バシャヤマ」の言葉が生まれたのである。
食事が終わりグンバイヒルガオが咲くバシャヤマの海岸を後にし、笠利湾の最奥部の赤尾木に向かう。ここは太古の時代に隕石が落ちた場所といわれ、浜が真円形に囲まれている場所で、何年か前の大学の調査で立証され、今でも隕石の破片を誰々が拾ったという噂が絶えない。内陸部の畑や林の中に数本、コンクリートの塔(高さ3~40m)が建っている。ここに太平洋戦争当時、日本軍通信隊の基地があって、その電波塔の残りである。米軍の爆撃を受けほとんどの物が倒されて、残っているものも機銃の跡などで倒壊寸前の危険な状態である。
西郷南州
竜郷町役場を右折すると西郷南州流請地跡である。安政五年(一八五八年)錦江湾に入水した西郷隆盛は運良く助かり、島津二十七代斉興の計らいで幕府には死亡届を出し、奄美に潜居を命じられた。安政六年から文久二年の三年間現地の愛加那と結婚して一男二女をもうけ、長男菊次郎はその後、西郷本家に引き取られ京都市長を二期務めた。
西郷を乗せた砂糖運搬船の福徳丸を係留したといわれる松が阿丹崎に残っており、地元では西郷松と呼ばれている。ここに五年前にはなかった茶店ができ、特産の大島紬や土産物も売っている。この松はリュウキュウマツ(Pinus luchuensis)で、幹肌は黒松に似、葉は赤松のように柔らかい。数百年を経たこの古木にはイヌセッコク、ヒトツバ、マメヅタなどの着生植物が小さなコロニーを形成している。マツ属は日本にはアカマツ、クロマツ、ヒメコマツ、チョウセンゴヨウ、ハイマツほか6種、数変種がある。
さて旧西郷邸は防風林にフクギで囲まれ、門の左側にホルトノキの古木、カンヒザクラ、タイワンチク、カキなどが植栽されている。奄美大島は気温が高いので内地で見るカキも植えられているのだが、ろくな実は成らず食用に適さず、同様に、クリやリンゴも育たない。
庭の中央には一段高くして碑文がある。明治三十一年に建立されたもので勝安房(海舟)筆によるものである。
碑文
天の此人に大任をくださむとするや、まず其しん志をくるしめ其身を空えすと、まことなる哉、此言、唯友人西郷に於て是を見る、今年君の謫居せられし旧所に碑石を設くるの挙あり、島民我が一言を需む我卒然としてこれを誌し以てこれに応ず
明治二九年晩夏 勝安房
西郷隆盛(一八二七~一八七七年)は明治政府の陸軍大将兼参議を務め、明治六年(一八九三年)征韓の議容れられず退官、明治十年、私学校党に擁せられて挙兵(西南戦争)、敗れて城山にて自刃した。
東京の上野の山の銅像は、討幕の時彼の力で江戸城を無血開城、江戸の街を戦火に遭わせなかった功績をたたえ建てられたものである。竜郷町の北端は今井崎、東シナ海に向いた山の斜面にはソテツとリュウキュウイトバショウの大群落がある。秋名付近は太陽を崇拝する原始的宗教が残っており、神との仲介役としてノロという巫女がおり、今でも祭事を司っている。太陽崇拝は、かつては日本国中にあった。神話の世界では天照大神がおり、また、元旦の初日の出を拝む習慣は今でも残っている。日本国中にある大、小の大島と名づけられている島々は、もともとは大きい島の意味でなく太陽と会う島(あふ島)、つまり日の出方向にある島という意味で、島も含めて古い地名にあるアワ、アワ島は「あふ→あわ」から転じたものだとの説もある。
隣村の芦花部は、一七〇〇年代にポルトガル船が難破し、打ち上げられた数人の船員が住みついた所といわれる。現地の人々と混血がすすみ、美人が多いところといわれ、美人伝説の碑がある。
奄美空港から、島都の名瀬市に向かうルートは三通りあり、竜郷町から本茶峠越えが昔からのルートであったが、峠道はカーブが多く、崖から転落したり、道が細いために車同士の交通事故が多く、七年程前に新たなバイパスができて峠をトンネルで抜けられるようになって時間も三十~四十分と、約二十~三十分の短縮で行けるようになった。今はバイパスルートがメインになり旧道を走る車はほとんどない。もう一本のルートはわれわれが辿っている東シナ海ルートで、距離にしておよそ50km、直行しても一時間半ほどかかる。一番遠いルートを選んだ訳は、東シナ海に面した海岸は景勝の地が多いこと、点在する小村は昔ながらのたたずまいを残し、植生も豊かであるからである。五年前にインドアグリーン協会のカレンダー撮影で訪れた時、海岸から約100m沖に高さ約20mの三角錐の岩礁があり、その頂上付近に自然に生えたソテツ、ハマビワ、ススキが見事な風景を作り出し、あまりのすばらしさにカメラのシャッターを切るのを忘れたくらいであった。注意深く車を進めると、ありました例の岩礁が!姿は前回見たままだが、道幅を広げるので少々海が埋め立てられ、海から抜き出た観は多少なくなったが、何だか昔の仲間に会えたようで感無量……有良村の山道は、昔筆者が白花のノアサガオ(Pharbitis indica Hagiwara=Ipomoea indica)の群落を発見した場所だったが、今回はその白花を確認できなかった。アサガオについては筆者が学生時代に在籍した遺伝育種研究室の萩原時雄教授をついつい思い出してしまう。教授はアサガオの遺伝研究では世界の第一人者で、英国の科学誌『ネイチャー』に初めてアサガオの染色体地図を発表、そのメカニズムなどを掲載した。その後も、リンケージ、帯化現象の研究など、九十二年の人生を総てアサガオに捧げた人である。道は名瀬湾を見おろせる大熊峠、ここからは名瀬の街と港が一望の下に見渡せる。湾の入口には田端義夫が「島育ち」に歌った沖の立神が、出船入船の航海無事を守っている。立神はこの地方の各々港の入口にある岩礁に海の神を祭ったものである。
名瀬市の奄美セントラルホテルに着いたのは四時過ぎであったが、この時期まだ陽は高い。もっとも東京にくらべて、日没は約四十分遅く、午後七時半頃となる。夕食まで間があり、久しぶりの市内を散策する。中央アーケード街は昔ながらのにぎわいで商売も繁盛している様子である。アーケード街を抜けて永田橋、末広市場をのぞくことにした。
ここは市民の台所とも呼ばれ、鮮魚、野菜、惣菜などが売られ、観光客相手の貝細工、黒砂糖、ハブ皮製品など五~六坪の小商店が軒を連ね、夕方になると買物の人々でごった返す場所である。筆者が奄美に来た時は必ず寄るお決まりの市場で海藻のアオサ、カツオブシ、塩辛、などの土産を買った。この日は休みなのかどうも人気が少なく、近づくにつれて閉めている商店が目立つ。全店の三分の二は閉まっており、わずかに鮮魚、惣菜、乾物を売る店が営業している。聞いてみると近所に大型のスーパーが何軒もでき、客を奪われて商売にならず、廃業する店が現在でも後を断たないとのことである。
何処も同じ秋の夕暮れ!時の流れは誠に無情である。地方の風物詩ともいえる市場の存在も風前の灯である。まあ、嘆いても始まらず、乾物屋でアオサ、黒糖、グミを買う。アオサは岩礁に生える緑藻類で干して汁の実や、あぶって海苔と同じように使用する。沖縄のは奄美の物より小ぶりで軟らかく、「アーサ汁」として飯の付汁として有名である。黒砂糖はこの地方では喜界島の物が最上とされ、奄美産の黒物に比べて亜麻色をしている。グミとあるのは海岸に生えるマルバグミ(Elaeagnus macrophylla)の枝を細かく切り乾燥させたもので束で売られている。当地ではグビギと呼ばれ、風邪を引いた時の熱さましの特効薬で、これを煎汁にして飲めば40度の熱も一発で平熱に戻るという。民間薬として今でも重宝されている。野菜類ではかつてリュウキュウツワブキ(Farfugium japonicum var. luchuense)が茹でて束にされ水に晒されていたが、もうその姿はない。葉裏が紫のスイゼンジナ(Gynura bicolor)、肉が紫のムラサキイモ(サツマイモ)などは今回見ることができなかった。食生活でも都会と同じ、キャベツやレタスが主流となり地方色豊かな物も次第に消えて行く運命にある。現在蔬菜や果樹、穀物の地方品種は絶滅の危機にあり、その保護が叫ばれている。
食用トウモロコシは全世界ハニーバンタム(ハニーコーン)に統一されつつあり、各国独自の品種が駆逐されている。日本でもかつてはクロモチトウモロコシやシロモチなどがあったがもう市場にその姿を求めることはできない。ダイコンに至っては青首一辺倒、根の長いニンジンはなく、そのうちゴボウの根も短くなるかもしれない。
七月七日、午前十時二十分ホテル発、国道五十八号線にて奄美第二の都市古仁屋に向かう。名瀬市を南下し、朝戸峠というかつては難所と呼ばれたカーブ続きの峠越えも数年前にトンネルが完成し、8.7kmの距離もあっという間に通過するという。五年程こなかったらすっかり道がよくなっている。
ヒカゲヘゴとモダマ
名瀬市から22kmの朝戸峠を越え、さらに13.2km行ったところが三太郎峠である。トンネルが作られているが、それを避け旧道に入る。旧道はすれ違う車もなく、まったく忘れ去られた道で林業関係者が利用する程度であり、管理は住用村が行なっている。嶮しい山が迫り、谷間にはヒカゲヘゴ(Sphaeropteris lepifera)の群落が各所にある。ヒカゲヘゴは琉球列島に生える木生シダの総称として呼ばれる場合もある。その中でも雄大であることから単に種名として用いられている。別名ヒヨケヘゴ、モリヘゴ、ニワヘゴなどがあり、葉痕に逆さマルハチのマークがあるマルハチと同属の木生シダである。日本に自生する木生シダは、小笠原諸島のマルハチ、エダウチムニンヘゴ(南硫黄島)、メヘゴ、八丈島と琉球列島のフモトヘゴ、琉球列島のヒカゲヘゴ、オニヘゴ、チャボヘゴである。かつて九州本土や紀伊半島まで分布していたフモトヘゴが一番耐寒性があり、北限のヘゴである。
また、三太郎峠はモダマ(Entada phaseoloides)の大群落があり、全山モダマの蔓で覆われた様子は圧巻である。マレー半島やオーストラリア(クイーンズランド)でモダマの自生を見たことがあるが、いずれも小群落でこれほどの大群落は他に類を見ない。
モダマはマメ科植物の中で最も爽が大きく、長さ1mを超えるものもあり、遠目には山腹に、昨年実って茶褐色に変色した莢が確認できた。今年の物は葉の緑と同化して探すのが困難である。遠く街道際の林までその分布を広げ、旧道で人も車も通行が極端に減った状態では密林が伐採されない限り、植生範囲の広がることが考えられる。モダマの和名は、海流で漂着した豆を九州、四国の海岸で拾った者が、原植物が遠く離れているため解らず、恐らく海藻(モ)が作った種子(玉)に違いないと考えたのが、藻玉の和名の由来であろう。豆は大きい物は通常直径10cm近くになるが、マレー半島のタマンネゲラ国立公園では径12cmのものを数個拾ったこともある。表皮は硬く、江戸時代には珍品として中をくり抜いて細工物、特にキザミタバコ入れに作り人気が高かった。
三太郎峠を下ると西仲間、この急坂も整備され道幅も広く改装され、坂の途中にマングローブを一望できるパーキングエリアが作られている。
- 初出掲載紙:(社)日本インドア・グリーン協会発行『グリーン・ニュース』
- 奄美大島植生誌No.1(グリーン・ニュース、一九九五年十一月号)
- 奄美大島植生誌No.2(グリーン・ニュース、一九九六年一月号)
- 奄美大島植生誌No.3(グリーン・ニュース、一九九五年三月号)
=休業日
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