第二章 伝統医と大きな薬籠: 一、伝統医との出会い

伝統医現われる

空は本当に青く、周りの木々の緑と美しいコントラストをなしている。今日も天気がよい。だんだん気温が上がり、暑くなってきた。

七月四日。ワウで生活を始めて早くも三ヶ月が過ぎようとしていた。ここワウは標高1,000メートル以上あり、朝晩は涼しい。雨降りの日は一日中気温が上がらず、雨が続くと寒さを感じる時もある。天気のよい日は30度近くまで上がり、一日の中に四季があるようだ。やっと慣れてきたが、着任当初は、この一日の気温差に体がついていかなかった。現地の人たちの多くは、午前中に仕事をして午後はのんびりしている。そのようなライフスタイルが、この国の風土にピッタリだなと実感しているころでもあった。

その日は、研究所のスタッフで私の助手でもあるクレメンと薬草園の整備について話し合っていた。クレメンも約二ヶ月前に、この研究所に勤め始めたところだった。隣町にあるブロロ林業大学を卒業したばかりで、植物の知識が豊富で彼に教えられることも多く、その後の研究に心強い人材であった。

薬草園の概略図を書いて、その中に現在植えられている薬草の名前を記入していた。その時、外で、
「アビヌーン」(ピジン語でこんにちは)
と声がする。金網の窓越しに外をうかがうと、小柄な老人と女性が立っていた。老人は毛糸で編んだ帽子をやや斜めにかぶり、薄汚れたワイシャツに、裾丈が足りず吊り上がったズボンをはき、裸足であった。女性は四十歳ぐらいで、色のあせた赤いTシャツにラップラップと呼ばれる腰巻を身につけ、ゴム草履をはいていた。

クレメンが様子を見に行き、彼らと現地の共通語であるピジン語で何やら話をしている。しばらくして研究室に戻って来て、私に説明してくれた。
「どうやら彼らは、ヒーラーと呼ばれる伝統医で、日ごろ使っている薬を私たちに化学的に分析して欲しいと頼みに来たらしい」
という。私は予期せぬ依頼に困惑した。まず、いま外にいるしょぼくれた老人とパプアニューギニアの普通のおばさんは、本当に伝統医なのか?そして、どうして私たちに頼みに来たのか?薬草の化学分析は私たちの任務の一つとして所長から指示があったが、伝統医が使っている薬を分析するという話は聞いていない。とにかく直接話してみることにした。

外に出て彼らと話してみたが、まだおぼつかない私のピジン語では十分にコミュニケーションが取れず、結局最初にクレメンが説明してくれたことの確認で終わってしまった。とりあえず、所長に相談した上で返答するといい、近いうちにまた来てもらうように伝えた。

伝統医たちの話

三日後の七月七日。仕事を始めてしばらくすると、前に来訪した二人の伝統医がもう一人の伝統医を連れてやって来た。

前回の来訪後、私は所長に相談し、彼らの依頼への承諾を得ていた。私としても、現地の人が実際に使う薬草を見るよい機会であるし、国際協力の理想に燃える着任間もない私にとって、現地の人から直接仕事を依頼されることは、はるばるこの地までやって来た甲斐を感じられ、嬉しいことだった。

私とクレメンはすぐに外に出て挨拶を交わし、木陰の草の上に皆で座った。小柄な老人は前回とまったく同じ格好をしていた。女性の方はTシャツが色あせた赤から薄いクリーム色に変わっていた。もう一人の伝統医は、細長い黒い体にやや黄ばんだ白のワイシャツを着て、茶色の半ズボンをはき、足元はゴムのビーチサンダルだった。顔は黒く光るほど脂気があったが皺が多い。さらに膝あたりの皮膚のたるみ具合から五十歳は過ぎているだろう。名前を聞いてみると、小柄な老人はオイバ、女性はレベッカ、細長い体の男性はヤーネスといった。

すぐにレベッカが話しだした。
「私は、死んだ人を生き返らせることができる」
私は耳を疑い、彼女の方を食い入るように見ると、話を続けた。
「死体を中央に置き、その周りを多くの人が踊りながら回る。そこでイワと呼ぶ薬草の皮を噛み砕いて、死体に吹きかけるんだ。すると、生き返るんだ」
デッドボディーという言葉を聞き直したが、やはり死体のことを意味していた。そして、私はレベッカに、
「生き返るのだから、まだ死んでいなかったのじゃないか?」
といってみたが、
「いや、死んでいた」
と、強い口調で答えが返ってきた。

これはどうやらこの国、あるいはレベッカの住む地域の文化では、死の定義が私のそれと違うのではないかとその場は結論づけて、別の質問をした。
「イワと呼ぶその薬草は、どんなものなんだい?」
しかし、答えは返ってこなかった。すると隣に座るヤーネスが、
「死人を生き返らせる薬草には、カンガというのもある」
といった。ヤーネスは、レベッカと同じミニヤミアという村の出身だった。ミニヤミアはワウよりさらに奥地で、隣接するアセキという村とともに近年まで文明に接することが少なく、古い文化や習慣が多く残る地域であった。中でもスモークボディーといわれる伝統的な葬り方は有名で、村の有力者の弔いに際して、その死体に泥を塗り薪を焚いていぶし、村の護り神として神聖な場所に祀っておく。キリスト教が入って以来このスモークボディーは執り行なわれなくなったが、ミイラのようになった当時の遺体は、木の上に現在も見ることができる。

しばらく、クレメンとヤーネスがピジン語でペラペラと話していると、カンガは、ミニヤミアの言葉でショウガ(Zingiber officinale ショウガ科)のことらしいと分かった。その他いくつかの薬草を紹介してくれたが、名前はすべてミニヤミアの言葉で、それらの実体は掴めなかった。

オイバ老人は、パプアニューギニア第二の都市レイのおよそ100キロメートル東方にある沿岸地域フィンチハフェンの出身だといった。この老人が最初に紹介してくれた薬は、避妊薬だった。彼は立ち上がって、研究室の東側に植えてあった黄色と赤色が入り混ざった葉のクロトンノキ(Codiaeum variegatum トウダイグサ科)を指差しながら、その木に近づき、話し始めた。
「このトゥルメンとタクとイヘサの根を擦り砕いて女に飲ませると、子を宿さない」
その老人は、皺だらけの黒い手を出し、指を折りながら三種の薬草の名前を一つずつゆっくりいい、ジェスチャーで砕いて飲む真似をした。
私がいつ飲ませればよいのか、質問したら、
「いつでも効く」
と、自信を持って答えた。

その日、彼らは、さらにいくつかの薬草を紹介してくれて、昼過ぎまで研究所にいた。クレメンが、彼らのピジン語を英語に通訳してくれたり、私のつたないピジン語で直接会話したり、また、日本語で感嘆の言葉を一人発したり、気がつくと三時間も経っていた。その後、タクはZingiber zerumbet(ショウガ科)、イヘサはColubrina sp.(クロウメモドキ科)と判明した。

七月十七日、レベッカが一人でやって来た。他の二人はどうしたのかと尋ねると、
「オイバはレイに行って、いまワウにいない。ヤーネスは豚箱に入っちゃった」
と返ってきた。私はレベッカの言葉を聞き返したが、やはりヤーネスは留置場にいるようだ。理由を聞いたが、レベッカもよく分からないという。いんちき治療でもして訴えられたのではないかと心配した。

前回教えてくれた死人を蘇らせる薬イワについて再度たずねたら、シナモン(クスノキ科クスノキ属)の仲間であることが分かった。そこで、研究所の標本室にレベッカを案内して、いくつかのクスノキ属の標本を見せたところ、シナモンの近縁種のCinnamomum podagricumと判明した。この種はニューギニア固有のものなのか、あまり情報がない。やはり薬というより、魔術を解く一つの道具として使われているようだ。この場合、死の原因を超自然的な呪いや魔術によると考えているのだろう。これを化学分析してくれというのだから、えらいことを引き受けてしまったものだ。

その後、しばらく伝統医たちは訪ねて来なかった。

そして約二ヶ月後の九月四日、ヤーネスが薬草を持ってひょっこりと現われた。それは、オーストラリアから来た研究者夫婦に、研究所内の施設を案内している時だった。ニューギニアの蝶の生態を研究する二人は、約三週間の滞在予定でワウにやって来た。のっぽで口ひげをはやしたご主人は昆虫学者で、奇麗な奥さんは化学者で薬剤師でもあった。私が、この国の薬草の化学分析をしていることを話すと、興味深く聞いてくれ、オーストラリアでも先住民であるアボリジニーの使う薬草が研究されていることを教えてくれた。彼らの研究は、トリバネアゲハの幼虫がどのようにエサとする特定の植物(ウマノスズクサ科アリストロキア属)を見分けるのか、幼虫の行動とその植物中に含まれる化学成分の関係から調べようというものだった。

ヤーネスは、ウェケとアウォングと呼ぶ薬草を枝ごと持ってきた。
「ウェケは、生の葉を痛いところにこすると痛みが止まる。アウォングは、マラリアで引き起こされる脾臓の腫大にその樹液を飲むとよい」と、ヤーネスは、それぞれの薬草を示しながらいった。ウェケはHomalomena sp.(サトイモ科)、アウォングはElaeocarpus angustifolius(ホルトノキ科)のようだ。隣で、オーストラリア人研究者は、興味深そうに彼の話を聞いていた。今回の話は理解しやすかったし、化学分析する価値がありそうだ。レベッカから聞いた留置所の件はあえて口にせず、薬草の分析を約束すると、ヤーネスはすぐ帰った。

古びた手垢の付いた請願書

その後、伝統医たちは、またしばらく姿を現わさなかった。老人オイバが三度目に研究所に来たのは、ヤーネスが薬草のサンプルを持って来てから一ヶ月以上経っていた。また裾の吊り上がったズボンをはき、裸足で、毛糸の帽子をかぶっていた。一人で来たオイバは、肩に掛けるビルムと呼ばれるひもで編んだ袋に、黒くて皺の多い手を入れ、手垢で汚れた紙を取り出し、無言で私に差し出した。その古びた紙は折り目が薄くなっていたので、私は切らないようにゆっくりと開いた。そこには英語の文字が並んでいた。他の伝統医と同様に、彼も読み書きができなかった。だから、彼が書いたのでないことはすぐ分かったが、なにやらオイバのことが書いてあるようだ。私はオイバを研究室の中へ入れ、椅子に座らせた。内容は英文で、以下のようなことが書かれていた。

「私オイバ・ウィウィスクは、モロベ州フィンチハフェンのコバウという村で一九二四年に生まれました。私の父も多くの薬草の知識を持っていました。成人になるまでその村で過ごし、その間に父から伝統的な治療の知恵を授かりました。

私は一九五五年に東ハイランド州のカイナンツという町に移り、金鉱夫として働き始めました。その傍らで、同僚や身近な人々に治療を施してきました。次第に私の治療の評判が広がり、大きな町レイに住む婦人から治療の依頼を受けました。好運にも恵まれ、長年患っていた彼女の病気を治すことができました。その婦人の夫は、レイの社会福祉課長を勤める身分の偉い方であり、私の治療手腕を高く評価してくださり、私のような伝統医たちの社会的地位を確立し、仕事がしやすいように協力するといってくれました。

そして、その夫の協力の下、一九七五年私はポートモレスビーにある政府の保健省の事務局長とコンタクトをとり、私の治療を認めてもらい、ワウの福祉事務所にその旨を記した手紙を送付してもらうことができました。その後、私はワウで公に人々に治療を施すことができました。

しかしそれも束の間で、一九七九年私の請願に対する保健省事務局長の行為が、国会の法制度検討委員会で議論されました。その結論は、政府が伝統的な療法を認めることはできても、それを規定する法律がないとのことでした。そして、その委員会は、市民の署名や国会議員の賛同を得て、伝統療法に関する法律を国会に提案するように求めてきました。そうすれば、伝統的な療法を施すことを、政府が正式に認可できるようになるというのです。

現在のところ、まだ法案の提出には至っていませんが、モロベ州の副知事やレイ社会福祉課、レイ労働組合、教職員組合、さらに医師会からの多大なるご支援をいただいております」

読み終えてオイバの顔を見ると、黒い顔に白目の際立つ目でこちらを見てにっこりした。少し誇らしげな表情で、小さな老いた体が少し大きく見えた。私はオイバに待つようにいい、事務棟にハリー所長を捜しに行った。数週間前、所長とのディスカッションで、WHO(世界保健機関)から薬草の研究に関するプログラムに予算が貰えそうだから、必要な物のリストを作っておくようにいわれていた。ちょうど、研究所として薬草の研究にとくに力を入れようと話したところだった。

ハリーは所長室で忙しそうに書類にサインをしていた。ハリー所長はパプアニューギニアのエリートで、パプアニューギニア大学を卒業後、イギリスに留学して理学修士を取得している。私は、例の伝統医の一人が来ていることをいい、オイバが私に差し出した手紙を見せた。それにざっと目を通したハリー所長は、直接オイバと話をするから少し待っててもらうようにいった。

研究室に戻った私は、ハリー所長を待ちながらオイバとピジン語で会話を始めた。
「おまえは、日本から来たのだろ」
とオイバがいい、私は、
「そうだ」
と、頭を大きく縦に振り答えた。すると親しみを込めた表情で、
「おれは、日本語を知っている」
といい、続けて、
「テッポウ、イチ、ニ、サン」
といった。私はニコニコしながらうなずいた。
「おれがまだ少年だったころ、日本人に食事を作ってあげたんだ。荷物を持ち、一緒に山の中を歩いた。オーストラリア軍が攻めて来た時は、逃げちまったけどね」
私はやや背筋を伸ばしオイバを見直すと、優しさと威厳のようなものを感じた。

その当時、オイバはフィンチハフェンの村にいた。彼の記憶は定かでないが、太平洋戦争の記録によると、フィンチハフェンは、一九四三年九月に連合軍が上陸して来るまでは日本軍の支配下にあった。ニューギニア方面攻撃の最重要拠点であったラバウルは、フィンチハフェンの対岸にあるニューブリテン島にあり、フィンチハフェンはニューギニア本島侵攻の重要な場所の一つだった。日本軍は、現地の人々に、荷物運びや食料の確保、炊事の手伝いなどをさせたようだが、オイバも含めて私の出会ったこの国の戦争体験者は、その当時のことを快く語ってくれる。歴史で学んだ戦争当時の生き地獄のような惨事は、彼らの口調からは想像できない。オイバのように日本語を少し覚えている者もいれば、日本の歌を記憶する老人もいた。彼らが話している時の顔の表情を見ても、やはり日本に対して悪い感情は抱いていないように思えた。

そのうち、ハリー所長が研究室に入って来てオイバに挨拶すると、すぐに私たちの隣に座った。ハリーはピジン語でオイバに話し始めた。
「あんたの手紙読んだよ。たいへんよいことだ。私たちも精一杯あんたを応援するよ。私はあんたのような伝統医が、保健施設で働くヘルスワーカーや行政官と協力して、この国の医療の拡充と発展に貢献して欲しいと思っている。病院や救護所がこの国にできてから、あんたのような伝統医が仕事をしづらくなったのは事実だよな。昔は生まれて大人になるまで、それぞれの村で伝統的な習慣にどっぷり漬かっていたのだが、いまじゃ若者たちはすぐに村を離れて学校へ行ったり、町に住む親戚をあてに村を出てしまう。それだから、若い者に薬草の使い方などの素晴しい伝統的な知恵が伝わらなくなってしまった。あんたのようなじいさんが死んでしまったら、何も残らずなくなってしまうよ。その前に何とかしなくっちゃな。とにかく、あんたの持っている薬草の知識をすべて教えてくれよ、そうすれば私たちがしっかり記録しておき、さらによい薬か悪い薬か調べておくからさ。もし本当によい薬が見つかれば、日本でも使ってもらえるかもしれないよ。そしたら、えらいことだ」
と、ハリー所長は、最後に私の方を向いて笑いながらいった。

それ以来、三人の伝統医の中でもオイバが中心となり、研究所として本格的に伝統医と一緒に仕事を進めることになった。

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書籍詳細

パプアニューギニアの薬草文化
パプアニューギニアの薬草文化 熱帯林に伝わる医療の知恵
堀口和彦・松尾 光 共著
日本大学生物資源科学部資料館双書2
B6判 / 256頁 / 定価1,540円(本体1,400+税)/ ISBN4-900358-43-6
完売[1998/03/25]
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